2001.04.20
第5次ネパール教育支援の旅
夢の記 第5号
2001.02.28-03.07
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ネパール・ミカの会会長-齋藤謹也(第五次教育支援の旅団長)
マズワニ中学校新設を支援して建物ができ上がり、その校舎引き渡しをメインとする第五次の旅をしてきました。あとは例年通りの各小学校訪問、翌年度支援候補校の調査。そして、タンセン市における図書、実験備品の贈呈と今年の旅は、慣れもあり、楽だと思いこんで気楽に出発しました。しかも、昨年の団員の多さに比し、今年はミカの会々員六名。全員二回目以上のネパール行き。

カトマンドゥに着いた所まではその通りでしたが、翌日の大使館訪問や、パドマ.カニ ヤ女学校訪問では、なかなか大変だと思い始め、ルンビニの中学校校舎引き渡し式では、さすがに「中学校」。村民の期待度の高さに、これが、いつものマズワニ村かと教育への熱意が飛躍的に高まっている事を実感しました。特に、理事長の演説中、実は開校にあたり政府に十五万円(日本円で)積み立てる必要があり、しかも、それがなければ正式開校として、教員の派遣がない事を知りました。そうすると、この金額をミカの会に又支援をというのかと思ったら、そうではなく、既に村人から募金して十二万円程集まっており、あと三万円であり、自分達の手で何とかするという強い意志が表明されました。
 貧しい村である事は、行った人がみなすぐに分り、見なりや生活ぶりに表れています。その中で、『自分達の学校』としての自覚がこの募金に表れていると思われ、感激しました。中間調査の際、この中学用地が少し民有地にはみ出している事が判明しました が、隣地の地主の好意ある提供によって解決した事や、地元女子達の中学進学への期待の高まりなどの報告がありましたが、今回の旅においても、確実な教育への関心の変化がみられたように思われます。
 特に、ヌルブ.ラマ君の校舎建設も実に堂に入り、レンガを前面に使用した瀟洒な建物は、この村自慢の建物となって、村人の意識向上に大いに役立ったように思われます。そして、各学校への補助の「職員室の整備」。これも、実に学校らしくしてくれておりました。
今回は子ども達へのプレゼントはなく、学校へのものにしようと考えていたので、アメだけ現地で買っていったのですが、これは、やはり、前回までのほうがよかったように思います。ついつい、日本の流儀で、プレゼントは教育上よろしくないなど と論議してしまいますが、カトマンドゥやタンセンではいざしらす、この貧しい村民の子どもにとって、ノートや鉛筆などは、教育上かかせないもののように思われました。たとえ、一人の子が何回か手を出しても、それを注意する子ども達も確実にふえて いるように見受けられました。調査した二校も、建設の必要性を強く感じましたが、だんだんと、この地の学校建築主体から教育内容整備の支援に移行していく事が、重要という認識も、強く感じました。
教科書、教師用指導書、教材の不足 ?A劣悪な学校 設備 ?B教員の訓練不足 ?C教育行政の地方への不徹底という、指摘されるネパールの初等、中等教育の問題点について、特にこのルンビニ地域において、強く感じられます。タンセンは、休日にもかかわらず、トリヴァン大学タンセン校の学長が、この地域の教育.福祉関係者に呼びかけ、贈呈式を催してくれました。
 そこで語られる事は、私達の活動が、現地の希望に基づいてのものである事が強調され、確実に教師.学生の学力向上に役立っている事を感謝されておりました。その事は、今年度、ある国際機関の援助(八千万円予算)で建設されつつある専門学校に学長や教授達につれていってもらっても、強く感じました。 予算もすばらしく多額なのですが、建設中の校舎はそれほどでなく、どこかに途中で流れている事が予感され、しかも現地で実際の指導にあたる教授達の希望は、完成まで全く入れられないとの事 でありました。その為、ミカの会に他の図書支援校(文系、理系、専門学校等)と同様の支援を依頼されてしまいました。この建設予算との落差に驚きを禁じえませんでした。また、トリヴァン大学の教授であり、かつ専門学校の学長、又は理事長であると いったように、重複して頑張っておられる事を知りました。従って、指導教授.研究者の育成も急務であるように思われました。
 チトワン自然公園では、珍しく動物達と会えず、最後に徒歩で帰る途中、サイに会いました。さすがに象の上に乗っている時とは違い。サイは大きく威厳がありました。野生はいいですね。

 帰国日も間近にせまった中、大使館の面会も決定して、おたずねしました大使館の警備はこんなに厳重にしなければいけないのかと素朴な疑問を抱きつつ、中に通されての会見は、実にまたなごやかなものでした。ネパールでの支援上のご注意も、ほぼ私共が気をつけて実践しているものであり、私達の活動に大きな自信にもなりました。パドマ.カニヤ女学校々長から個人的に依頼された六名の奨学金も、ホテルにてお渡ししました。(帰国後、全員の教育里親 も決まりました。)いつもネパール行。でもいつもとはまた異なった内容がつまったネパール行。同じで同じでない事を実感します。今回は出会えなかったヒマラヤ。会えるよい時期を選んできたいものです。でも、一週間の旅程では、この援助支援の旅、忙しすぎるようになりました。疲労がピークに達した団員もおりました。「年かな」と言わずに何かうまい方法を今後検討しましょう。
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三回目のネパールにて               
青沼 義信

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 昨年第四次教育支援の旅に初めて参加させてもらった後、十月にはなぜか中間調査の一人旅、そして今回の第五次の旅と、一年間で三回のネパール訪問となりました。一回目の旅では、ネパールの知識がヒマラヤとシェルパぐらいで、もちろん釈尊ブッタの真の生誕地とは知るべくも無く、ルンビニでマヤ聖堂.菩提樹.シッダールダ池など連れていっていただきましたが、観光地としての感覚で見ただけで感動はほとんど持てず、むしろダンパスからマチャプチャレ.アンナプルナ山群.ダウラギリなどのヒマラヤの山々を手に取るように眺められた事の方に大きな感動がありました。
 そして子供たちの純粋さは見られたものの、半世紀以上タイムスリップしたような人々の生活から、私の少年期の戦中戦後の生活を見ているようで切なさを感じただけでした。しかし中間調査と今回の第五次の旅で人々と直に接する機会が多くなったこと、また数か所の寺院や遺跡に連れていっていただいた事で、この国の日本の仏教にもたらした歴史的背景や、人々の融通性に欠ける程の純粋さに親しみを覚え、それまでは遠い国であったネパールがいつのまにかとても近く感じられるようになり、今回マヤ聖堂を訪れ斎藤会長が読経された時には、日本の寺社で祈る時のように、合掌し頭を垂れていた自分に気付いたとき、改めて自然な自分の姿を見つめ直しました。
 カトマンドゥ空港でいつものようにラマさんのお迎えを受けましたが、妹のジャンモさんまでが笑顔で迎えてくれ、故郷へ帰って友人に会ったような懐かしさと、暖かさが胸に沸き上がのを禁じえませんでした。
これに似た気持ちは、旅の間でたびたび感じる事になりました。
 シリ・マズワニ中学校に寄贈の校舎落成式が終わって、隣にある、すっかりきれいになったシリ・マズワニ小学校の職員室でマズワニ村村長からカラフルな色彩に編み上げた大小二点の籠を贈られましたが、この籠が村人の手作りで自分の家庭で使うか、知人に贈るもので、土産物屋などで売るために作っているものではないことを聞き、心のこもった貴重な品を贈ってもらったことに、援助する者、援助される者を越え  た気持ちの通じあいのようなものが感じられ、とても嬉しくなりました。
 この日はマズワニ中学校の落成式の後、他の援助校や来年度に新築を希望しているシリ.ハジエナ・エトウラハ小・中・高等学校での計測、医療保険センター訪問などで遅くなり、最後の訪問校シリ・グルワニマイ小学校に着いたのが四時半を回っており生徒はだれもいませんでした。しかし私達が車から降りた途端、こどもたちが叫びながら駆け寄って来、みるまに四十人ほどにになり、口々に「今日は金曜日で授業は昼までだったが、ミカの会が来るというので四時まで待っていたんだ」と言うのを聞き、申し訳ないやら、嬉しいやら。会えないのではと思っていたこどもたちに会え、本当に嬉しかった。タンセンでは、塩屋の娘たちやカルナちゃんなど私にとっては孫達?娘達?との再会も嬉しかったのですが会った早々、トリヴァン大学の先生方も言われていた「今村先生のお体のぐあいはいかがですか」との言葉を娘達からも聞くに及んで、日本のミカの会との交流がここまで深くなっていたことに感慨深く、先輩諸氏のかかわりに深い感謝の念を持つと共に、このような国を越えた深い関わりは、広く浅くの付き合いではできる筈もなく、お互いの真心が通じ合ってはじめて出来上がるものであることを痛感いたしました。今後もこの心を大切にし、私の信条のして活動していきたいと思っております。 その他今回特記すべき事は、チトワン国立公園で野生の鳥達や動物達に出会った事とネパールの地酒「ロキシー」が手に入った事です。
 三月四日予定の学校訪問をすべて終えた午後、タンセンからチトワンに向かいナラヤニ川をカヌーでナラヤニ川最大の中州にあるアイランド・ジャングル・リゾートに渡りました。川にはカモやカワセミなど大小の水鳥たちがのんびりと遊んでいるのが見られ、忙しかった学校訪問を忘れゆったりとした時を楽しみました。特に、夕暮れの河畔のベンチに掛け、静かな川の流れに遊ぶ水鳥たちをウオッチングしながらのビールの味わいは最高で、極楽気分を満喫しました。夕食前、ホテルの中庭でタルー族のスティック・ダンス・ショーがあり、ショー最後にゲスト参加のダンスが始まりましたが、ミカの会全員参加で踊りの輪に入りました。中でも片岡さんのさすが現役!の踊りは、私たちとはひと味違う動きをされていました。
 翌朝、トラの会える事を楽しみに、一時間ほどのエレファント・サファリーを楽しみましたが、数多くの野鳥とさる等には会えたものの、残念ながらトラには会う事ができませんでした。しかしエレファント・サファリーを終えホテルの帰途、サイが目の前に現れこわごわながらも見る事ができたのはサイワイでした。トラは次回以降の楽しみとしてとっておきます。とにかく楽しいチトワンでした。
「ロキシー」は、初回訪問の際レストランでいただいた味が忘れられず、中間調査の際探し歩いたのですが、日本の自家製「どぶろく」のようなもので市販はされていないと聞きあきらめていましたが、ラマさんが今回カトマンドゥで案内してくれた車の運転手さんにロキシーを売ってくれるところがないか聞いたところ、運転手さんの自家製を分けていただけるとの事、ペットボトルに一リッターづつ快く譲っていただき、念願は適い感謝、感激でした。 しかし折角念願適って手に入れたというのに、帰国後そのほとんどを友人に飲まれてしまい、揚句のはてに「ネパールにこんなに旨い酒があるとは...?今度行ったらもっと買って来い」には腹が立つやら嬉しいやら。
 今回の旅の参加者は会長以下六名と少人数で多少の寂しさと、当初体調不良の方もおり不安がありましたが、皆さんの頑張りでお互いの協力体制がスムーズに行われ、効果的な行動ができたことで、少人数なりの充実した、そして楽しい旅であったようにおもいます。しかし最終日のバザー用品仕入れで店をわたり歩いた時には、みなさんさすがにバテバテのようで少人数の限界をおもい知らされたようでした。
  参加のみなさん、ラマさん&車を運転してくれた二人の運転手さん!お世話になりました、そしてほんとうにご苦労様でした。
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またネパールへ
 浜崎 ヤスエ

坂さんに見送られて、今回は六人だけのさびしい出発となりました。ミカの会の会員になって四回目のネパール行きです。やっぱり私はネパールが好きなのでしょう。次の年と思っていたのに今年もまた参加する事になりました。
二十八日の夕、定刻にカトマンドゥに着きました。いつものようにラマさんとジャンモさんが迎えてくれ、二人の笑顔に道中の疲れも消えました。ネパールでは、私達行く先々みんなが歓迎してくれます。
カトマンドゥ女子校の先生、生徒たち、ルンビニの子供たち、先生、村長さん、村の人々、タンセンの大学の先生方。それぞれ馴染みの人たちばかりです。 昨年までは手を合わせて、ナマステの挨拶はトリブヴァン大学の学長でしたが、今年は両手で握手をしてくれました。あちこちで受けるこうした親身の歓迎は、毎年支援に訪れるミカの会への信頼の証だろうと思います。 ルンビニシリマズワニ中学校の落成式は、鮮やかなテントの下で行われました。テラスが付いたレンガ色の新しい学校は今までの中で一番立派に見えました。 ただ、開校は六ヶ月か一年先になるという話でした。国へ納める預託金の問題とか、いろいろあるようです。
ルンビニ地区では他五校を訪問、三十度近い暑さの中を校舎や、敷地の実測で会長、青沼さん、和田さんが汗を流しました。私達は教室の子供たちにお土産のアメくばりです。一つの学校ではアメの奪い合いがあって、胸が痛みました。子供たちのために、よいことなのかどうか考えてしまいました。
学校が建ち、ラマさんの指導があって、ルンビニの人々は教育に対する意識が変わってきつつあるそうです。タンセンでは学校関係だけでなく街の人たちとも交流を持ちました。大学への図書、機材の援助は、実際にセレモニーに出席してみると、学校にとってどれほど価値のある支援であるかがよくわかります。ただ支援校が増えつづける中、小さな会のミカの会が、これからどういった形の支援を続けていくことになるのでしょうか。贈答式づくめの学校訪問は疲れました。特に大変な任をこなされた斎藤会長は相当お疲れの様子でした。青沼さんも写真撮影と記録で大忙しでした。
翌日私達女性は半日のフリータイム。塩屋の娘姉妹と、カルダという女の子と連れだってタンセンぶらを楽しみました。女の子たちの人なつっこさには負けてしまいます。
チトワン自然動物公園ではみんながゆったりとした時間を過ごし疲れをとりました。カトマンドゥに戻り、和田さんは六日の夜にご家族と合流、最終日は六名(ラマさんを含め)で日本大使館を訪問しました。全員中に入れてもらい、同席で話を聞くことができました。私には貴重な体験でした。
今回は偶然の出会いの多かった旅でもありました。出発の羽田ではネパール大使ご夫妻に逢いました。帰国される息子さんの見送りで、彼とはカトマンドゥまで一緒でした。
サンセットビューホテルに滞在おられた和田さんのご家族、大石さん、それにシャルミラ、ロンシャンさんにも逢いました。山は見えなかったけどルンビニの夕陽は美しかったです。
疲れましたがたくさんよい想いをした旅でした。今回もまた自分のためのボランティアでした。
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ラマさんの情熱 
松浦 陽子
三月一日(木)、バイラワから主な支援先の一つであるルンビニに向かう。
 いつもながらネパールの車道は埃っぽく、車のゆれも激しい。道路が整備されていないところが多いのだから、 もう少し加減して走ればいいのに?と思うのだが、ドライバーさんは、平気で飛ばす。この地をはじめて訪れた時には、物珍しさも手伝ってか、それほど気にならなかったが、二回目・三回目と回を重ねるに連れ、この埃と悪路には閉口させられてしまう。旅の前半からこんな気持ちではいけないと自分自身に言い聞かせ、明日からの学校支援に思いを馳せつつ気を引き締める。途中、明日訪問予定の保健センターに届ける医薬品を購入し、タライ平原に沈み行く夕日に感動しながら、赤レンガの法華ホテルに到着する。ここでの2泊はやはり何よりの安堵感。明日の学校廻りに備えて、鋭気を養なわねば?。
翌三月二日(金)、此の度、ルンビニを訪れたメインの支援校シリ・マズワニ中学校を訪問し、落成式に出席する。
まず、目に飛びこんで来たのは村人と、何やら、よく豪華なベッドに付いている屋根の部分、つまり天蓋らしい。これを見ただけでもマズワニ村の人たちの並々ならぬ歓迎振りが伺える。村人達と天蓋の後方に赤レンガ作りの素敵な建物が見えている。この辺りの学校には珍しい、一見ホテル風の立派な作りだ。ミカの会のメンバー達から口々に感嘆の声が上がる。そして、理事長さんだと言うお坊さんを迎えて、いよいよ式典がはじまった。マズワニ村の村長始め代表者達がそれぞれ挨拶するのを、ミカの会の現地スタッフであるラマさんが通訳してくれる訳だが、かれらの言葉の端々に、この中学校ができて村の人々がどれほど感謝しているかが伝わってくる。特に、村長が、この中学校を開校するのに十五万円の費用がかかるので、これまで、一生懸命努力して十二万円集めたが、後三万円足りないので皆で協力して、一年後ぐらいには何とか開校できるようにして行きたいと話した時には、びっくりするのと同時に彼らの意識がこんなにも前向きに変わって来たのだと感動してしまった。
 これまで、村には中学校がなくて、進学したい生徒がいても遠いので諦めるしかなく、村人達みんなの長年の悲願であったこの学校は、宝物のような存在になっているのだと思う。本当にこんな立派な、建物だけではなく村人達の自助努力と真心のこもった学校が出来て、心から嬉しく幸せな気持ちを味わえたひとときだった。 
 午後、また何校か支援校を廻り、夜、食事が終わってそれぞれがホテルの各部屋に引き上げる途中での事、ラマさんやメンバーの何人かと今日の学校訪問の話しになり、斎藤会長からラマさんがこのルンビニに精通していてくれるので、如何にミカの会が助けられているか、改めて思い知らされた事があった。ネパールが多民族・多言語国家だとは聞いていたが、このルンビニ地区にも幾つか違う言葉があり、一般的なネパール語が通じない事があるそうで、その時はラマさんがそこの言葉に直して話をし、更に私達に通訳してくれているのだとはじめてきずかされ、彼の地道な努力と有能さに敬服させられた。そして又、彼は今日訪れた支援校の一つであるシリ・ルンビニ小学校のレベルの低さが気がかりらしく、自分がこのルンビニに一年ぐらい滞在することが出来たなら、村人達や先生方に多くの事柄を教えたり、伝えたり出来るのに?と熱く語ったのだ。ミカの会の現地スタッフであり、通訳もこなし、更に優秀なガイドさんでもあるこの若者は引手あまたで本当に忙しく、ネパールの都会も田舎も駆け回っている人なので、とても現実には叶わぬことだが、その視野の広さからあちこちの事情に詳しくなるのは自然の成り行き、特に自分がかかわりを持っている教育現場を訪れることの多い彼は、元来優秀な人だけに、自分だったらこうゆうやり方でーああゆう指導で・・と思うのだろう。このラマさんの教育に対する情熱の深さに本当に感心してしまった。今、日本にこんなに純粋に且つ熱心に教育に対する理想を持った若者が果たして何人いるだろうか?。
教育支援を柱としているミカの会にとってラマさんは必要、欠くべからざる存在であると思う。
良い人材に出会えて本当に良かった。

 話を少し前に戻してシリマズワニ中学校の赤レンガ作りの校舎だが、一見、ホテル風の贅沢な建物だと思われるかもしれない。しかし、ミスターラマはこの辺りにない、遠くの地域の生徒達もあこがれるようなモデル校を作りたいと言う情熱があり、これまでの職人ではなくバイラワから大工さんを連れて来て建てたのだそうだ。貧しいこのマズワニ村の子供達にとってどんなにか嬉しく誇らしい学校になる事だろう。まだまだ婦女子の地位が低いネパールのしかもルンビニと言う田舎の女子にとって、こんなに身近に中学校が出来たので、家の手伝いを済ませてからでも通えると言って喜んでいるとも聞いた。支援しているミカの会にとっても本当に嬉しい事だと思う。
 私にとって、このルンビニでの「ラマさんの情熱」がこの後の支援旅行を続ける上で、とても大きな励みになった。少し風邪気味で何だか体調が思わしくなく、次の支援先タンセンに向かうあたりからだんだん、この先大丈夫だろうか・・と言う不安にかられて、弱気の虫に取り付かれてしまった時、「ラマさんの情熱」が浮かんできて、あのときの感動が蘇り旅を続ける元気を取り戻せたように思えるのだ。人の情熱と言うものは不思議な力を持っているのだと思ったことだった。
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たびたび旅・2001年    和田 泰子
 もうひとつうれしかったことは、タンセンを初めて訪問したときに仲良しになったアヌに今年もまたあえたこと。アヌはトリブバン大学理系校の学生。「ぜひ夕食を一緒に。 真っ暗な道なので兄が迎えに行って、ちゃんとホテルまで送るから。」とお誘いをうけた。斎藤団長にお許しをいただいて再びアヌの家を訪問。家族のみんなと石の床の上にあぐらをかき、お母さんの手づくりダルバートをいただいた。私にはスプーンとフォークを用意してくれたが皆は指で上手に素早く食べる。私も前にやったことがあるからと指で食べるが、時間ばかりかかって上手に食べられない。それに食事の量の多いこと、多いこと。少し食べるとすぐ足してくれるので、食べても食べても減らない。いろいろおしゃべりしながら1時間以上もかかってなんとかたいらげた。おしゃべりの中でお母さんが広島の原爆のことにふれたのは驚きだった。冗談ずきなお父さんとは俳句談義。ほんとうに楽しいひとときだった。手が届きそうな満天の星空を眺めながらホテルに戻ってきた。
 ミカの会の旅が終わった後、私にはもうひとつ大切なイベントが待っていた。実家の母の八十四歳のお祝いを母、私、娘、孫の四世代で、ヒンドゥ式で行う事、それと大石一馬奨学基金の奨学生に会いにトゥクチェの学校を訪ねる事だった。これには妹夫婦も同行した。 ヒンドゥ式のお祝いはホテル・サンセット・ビュウのオーナー、トラチャンさんのご家族が朝早くから色とりどりの花かざり、何種類ものお供え等を準備してくだりさり、午前十時頃始まって延々四時間ほど続いた。お坊さんが経典を読みながら、聖水(?)をふりかけ、花を供え、鐘を鳴らし、お金、供物をそなえ、これらを何回も繰り返した。炎天下だったので、高齢の母にはきつかったようだ。夫の代わりに儀式にずっと付き合って下さったトラチャンさんもしんどかったと思う。
淡いクリーム色のサリーを着せてもらって、うつむいて座っている母は、わが母ながら観音様のように美しかった。トゥクチェへの旅はカトマンドゥからポカラ、ポカラからジョムソンは飛行機で、ジョムソンからは4時間程の徒歩となるが、母と2歳9カ月の芙佑は馬での旅となった。芙佑が馬をいやがらなかったので助かる。この旅にはトラチャンさんも同行して下さり心強かった。奨学生としてジョムソンの学校で学んでいる子ども達が、お祭り休暇で家に帰るのとぶつかり、一緒にトゥクチェまで歩いた。皆小学生だが、私達の荷物をずっと持ってくれた。現在、大石一馬基金の奨学生は七名だが、新たに加わる二人の奨学生にもトゥクチェで会う事が出来た。ジョムソン、トゥクチェは真冬にちかく雪も降ったが、そこから飛行機で二十分ほどのポカラは真夏のような暑さ。衣類の調節が大変だった。母が疲れから少し体調をくずし、芙佑がずっと下痢ぎみでトイレ探しに苦労したが、トラチャンさんご夫妻、妹夫婦の助けで、どちらの目的も無事に終えることができた。 
毎年、毎年、惰性のようにネパールを訪ねている。どうして私はネパールにばかり行くのか?他にも行きたいところは沢山あるのにと、自問しながらますますネパールに深くはまり込んでいく私である。
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