2000.03.27
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第四次ネパール教育支援の旅参加者の感想文集です。「夢の記」の原稿です。順不同です。ご感想などありましたらお知らせ下さい。
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拝啓、「紅石楠花の王国」ネパール様へ
東 逸子
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こちらはもうすぐ桜の季節です。その後、お元気ですか?
「ネパール王国」・・・そのお名前を覚えたのは、小学校の頃だったでしょうか。地図帳の巻頭のページに載っていた世界の国旗、その中でも、三角形が二つ連らなった珍しい形の赤い国旗は、ひときわ目を引いておりました。その美しい旗を持つ国ネパールへ、本当に訪れることになろうとは、その頃はむろん、数年前まで思ってもみない事でした。私達がお伺いした時、それは美しい紅色のシャクナゲの花と、この上ない笑顔で歓迎して下さいましたね。あの、国旗の燃えるような赤はシャクナゲの色を、不思議な三角形の連なりは、あなたの誇るべきヒマラヤの山峰を彷彿とさせます。この崇高な山々が、あなたにとっていかに大切な宝であるか、身をもって感じたことがありました。それはタンセンのセン小学校で絵の時間をお手伝いした時の事。描き方の説明が終わるか終わらないうちに、子供達はさっさと手を動かし始め、そのほとんどの紙の上には三角連なる形、そう、どう見てもあのヒマラヤの山脈が描かれていたではありませんか。それがパターンになったり縁取りに変化していたり・・・実は日本のお友達に向けての自己紹介を兼ねた自画像を中心に描いていただこうと説明をしていたのですが、この事は嬉しい驚きでした。子供達の絵の中に、あなたという国の最も大切な宝を垣間見たような気がしたのです。それぞれの自画像も活き活きと素晴らしかったのは、言うまでもありません。

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ところで日本からのプレゼントはその後いかがですか?屋根のある校舎は快適ですか?書籍は自由に活用出来ていますか?実験用具は使い易いでしょうか?チビた鉛筆は、使い辛くありませんか?できるなら、それらを実際に使う生徒さんや先生一人一人に直にお伺いしてみたいところです。そのうちに、是非そのあたりの率直な意見をお聞かせ下さい。それがこちらに届けば、今後の日本からの贈り物が更に的確にお役に立てるのではないかと素人ながら思った次第です。学校の主人公はあくまで生徒さんですもの。
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今、もう一度地図を広げながら世界唯一の形をした赤い国旗を眺め、美しい国花シャクナゲの花へと想いを馳せています。初めてその国の名前を覚えた子供の頃と同じ国旗。しかし、それは今違って見えます。大切な友としてあなたを知ったこの眼には、それは豊かにはためいて、親しそうに微笑んで映ります。十年先、二十年先、五十年先・・・あなたはおそらく変わって行くでしょう。そして、この日本も。しかし、あなたはあなたらしくあって下さいね。日本とも違う、他のどこの国とも違う独自のあなたでいて下さることを心から願っています。その、比類なき国旗のように。私達との友情がいつまでも変わりませんように。
お元気で。またお合いしましょう。
敬具
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始めてネパールへ飛ぶ
東 繁雄
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この年にして初めての海外旅行、もちろんネパールは生まれて始めて、ドキドキ・ワクワク特に長時間の飛行機は不安でした。けれどもみなさんのさわやかな明るさに包まれて、そういう不安はどこへやら、楽しい旅になりました。それぞれの地名など、覚えることはできませんが、一生忘れることのない、幾つかの感動的な思い出を作る事ができました。先ず、さすがに世界の屋根と云われるヒマラヤの山々、ビューホテルから眺めるその姿は雄大で壮厳で、何時間でも眺めつづけたい気持ちでした。三群ある中の一際尖った山、マチャプチャリ名前がなかなか覚えられなくて、その形の似ていることから、勝手にマッターホルンと呼びました。この山は何人も登ることを許されない聖なる山だそうです。次に道ゆく家々から顔を出す子供達、幾つか訪ねた学校の子供達、ほこりにまみれ、或いはハダシの子も居ましたが、一様にクリクリした大きなひとみ、つくらない可愛らしさが印象に残ります。彼等が目を輝かせて歓声をあげて迎えてくれました。それから、道路の真ん中を、悠々と、のんびりと歩く牛、犬達ももちろん首輪もひももつけていません。時間の進みがゆるくなって、遠く忘れ去ったどこか心のすみに残っているふるさとに戻ったような思いでした。幾つもの学校を訪れましたが、何れも校舎を建てたり、図書を贈ったり、よくぞこのような辺地まで支援の手をさしのべられたものだと、感動ひとしおです。
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会長が最初にルンビニを訪れられた際、近くの雨漏りの校舎を見て、いたく心を動かされて支援の志しを立てられたと聞きます。ルンビニの地で生誕し、慈悲を説く仏陀の心を、しっかり体得されて、その発露としての菩薩行を実行されているものだと、改めて感じ入りました。事務局長始め役員、会員の皆様方、細かいところまでよく行き届いて、その裏には色々と困難やご苦労があったと思いますが、やはり奥底に流れるこの慈悲の心をもって、乗り切って居られることと思います。期間中の3月6日は、丁度亡妻の三回忌に当たりました。四十年来の糟糠の妻を偲んで居りましたところ、ルンビニ園内のマヤ聖堂で、会長がお経をあげて供養して下さいました。みなさんも参列していただき感慨ひとしおでした。旅行記が個人的な感情のみになって、申し訳ありません。又の機会がありましたら、もっと冷静に客観的な記事が書けるかと思っています。皆様のさわやかで明るい歓迎を受けましたことを深く感謝します。
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ネパーリー
石川 ケン
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今回のネパール行きが決まったのは、去る1月23日の19才の誕生日だった。昨年までは女の子や遊び仲間と過ごしていたが、今年は父と祝おうと思い、会う約束をしていた。当日になると「お父さんの友達に会いに行こう」と連れて行かれるままに、僕たちは町田へと足を運んだ。聞けば骨董仲間で禅の寺の住職さんだと言う。
想像が膨らんだ。立派な門を構えた、その奥に進むと齊藤夫妻がお茶菓子を用意して迎えてくれた。風格のある住職とあふれんばかりのやさしさが伝わってくる奥さんだった。話を聞くと、ネパールで学校を建てたりして、子供達に教育を与えているらしく、僕もネパールに興味があったのでトークに花が咲いた。住職は子供達にノートを配っても、お腹の中に隠してもう一回並びに来てしまった苦労話や補助金を送っても末端に届くまでには乏しい金額になってしまった、努力もむなしい実態、さらに水や氷、食べ物に当たった人の話を聞かされた。まさk後で自分が当たるとは想像だにしなかった。日が暮れると僕達一行は鎌倉へと向かった。夕食を共にして、いわしをつまんでいると、住職にこう誘われた。「ミカの会の旅行に先駆けて、版画家の人と議員さんがネパール入りするから一緒にどうだい。」僕も、ちょうどその時期、ヨーロッパに行く計画を立てていたが、たまたまネパール製の服を着ていたこともあり、行ってみたいと思ったので同行させてもらうことにした。その日が旅のきっかけとなった。一ヶ月の旅の中で僕はたくさんの子供たちと出会った。空港で観光客の到着を待ちわびて、着くやいなや群がって囲み、チップをせびる子、いっちょまえにペンダントを首から下げなかなか良さそうなクツをはいている子、タンセンで手をつないでアンクルと僕を呼びくっついてはなれない子、楽器職人の息子で一緒にサイクリングをしたり、家に招待してくれたり、別れのプレゼントをくれたりしたサントスという子。一方で目玉寺の前で僕の服の袖をひっぱり口に手をやりながら食べ物が欲しい、お腹がすいたというしぐさ、何回もギブミーテンルピーとお金をせびる貧しそうな女の子。ポカラで僕の自転車の後ろに勝手に乗っかりビスケットと言っておりない丸坊主のチビ。子供の世界にも明らかに貧富の差がある、それぞれの生まれた家庭状況によって左右されるため、先天的といっては変だがカースト制度が根付いている国柄だけに仕方のないことだろう。学校も見てきたが十分な指導が行き届いているとは、とても思えなかった。昔からの掟を守っている種族はそっとしといてあげたいが、ある程度文明が入ってきている以上、教育は必要だし、どういう援助をしていくかも難題だ。すべての地域、子供に平等に支援するのは不可能だが、今回設立した校舎からネパールの未来を担う若き優秀な頭脳が生まれればと思う。最初は反りが合わなかった坂さんを始め、窪田さん、半田さん、クリシナ、愛妻家のモティーさん、増田さんなどヤジが入る国分寺グループ。そしてミカの会の会員の方々と旅が出来て良かった。8月に旅にでるがその帰りにでも又ネパールに立ち寄りたい。
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初めてずくしの旅
増子 郁生
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今回のネパール支援の旅は、自分にとってこれから社会に出る自分を改めて見るために、そして、実際ボランティアとして支援しているネパールという国の状況はどのようになっているかというのを実際に見たいと思い、一週間皆さんと参加いたしました。初の飛行機搭乗、そして初の海外旅行という事もあって、どうゆうものなのかと期待と好奇心に満ちながら羽田空港を出発しましたが、離陸後、いきなり頭が少し酔ってしまいました。その後も何回か飛行機やチャーター機で酔ってしまい、特にポカラーバイラワ間のNECON AIRは自分にとって最悪でした。この飛行機酔いを何とかしないといけません。さて、実際にネパールの町についてまず思ったことは、たしかに人種は違いますが、あまり日本と変わらない所だなと思います。観光地の見学が多かったせいもありますが、自分の思っていたネパールの国とは何か違うかなと。直線的に言えばもっと近代的じゃないかと思いました。特に、タンセンとバイワラの間にあった山道では何と太陽電池を持った家を発見。小さい感じでしたが何と太陽電池ですよ。日本の一般家庭でもあんまりじぶんは見た事がないので驚きです。そして、行き着くホテルの豪華さも驚きでした。ネパールの一般家庭料理よりは豪華なのは間違いないのですが、自分としてはけっこうおいしかったです。ただ少し油っこい料理が多いみたいです。話題を変えまして、今回の旅の私の感想の主な視点はポカラです。何と出発日から三週間前にTYでネパールの特集をやっていて、親からの電話連絡で初めて知って見ました。その時にポカラの町の特集もやっていました。自分としてはこの時のTV放映は、ネパールへ行く良い予習になると思いました。ポカラは、リゾート地という意味合いが強いらしいですが、実際に見てみると、確かに沢山のホテルと売店がありました。その光景を見てまず自分の頭の中で思った事は福島の白河の南湖公園という所に似ているなと思いました。規模としてはポカラの方が全然ありますが、自分としての雰囲気がそう思ったのでしょう。それにしても捨ててあるゴミが非常に多かったのが気になりました。衛生面ではまだまだなのでしょう。というよりそれ所ではないのかもしれません。その例として実際に売店の人達はGood Oneと言いながら、一つでも多くの品物を売っていて、少しでも生活面を豊かにしようとするバイタリティーに溢れる感じが良い例かもしれません。自分にとってこの事は見習うべき事だと思います。物があまりにも贅沢になっているせいか、実際に地に足が着いていない時も時々あるので、「この人達もこの世界にいるのだから、自分もしっかりとした生活を送りたい」と思っています。でもこの買い物自体海外では生まれて初めては当たり前、実際に学校で習った英語もあまり役に立っていない感じがしました。「くそー、どーすれば上手く買えるんだ。」と思いながら、店の店員の人達と永遠とも思える交渉は買い物終了の集合時間などゆうに越えて30分以上もかかってしまいました。この時は班の方々に誠に申し訳ないと思いました。一応交渉した物は買いましたが、申し訳ない事を沢山したなと思います。特にタンセンの子供に1ルピー与えた事は、自分は独楽の回し方を教えてくれたお代と思っていたのですが、団長の斎藤さんに「そんなことをしたら、タンセンの子供達が腐ってしまう!!」と言われました。この時に、臨機応変に金でなく物を与えてやればとても良かったのにと、日本に帰ってきてからも時々思っています。しかし、これも一つの教訓だと思い、「これからは気を付けるぞ」と心の内に置いとくでしょう。次に、ポカラ観光で一番のメインだったのかもしれないのは、学校訪問じゃないかなと思います。うーんこれは観光でなく支援だな。うん。まず、その学校の位置は崖みたいな斜面の中腹ぐらいにあって、壁は一応レンガですが土を使って固めて造られているので、雨期の時期になったらこの学校はどうなるのかと思っています。その学校から少し離れた所には、イギリスの国が援助している学校があるのですが、これがあまりに立派すぎて外見で見れば日本の小学校と変わらないと思います。この学校だったら雨で流される事はないなとおもいますが、この地域の山肌はほとんどが禿げ山で木はほんの少ししか生えていません。しかも道自体はきれいなのですが安全整備が道周辺ではしていなく、とても怖く感じました。カーブが多かったのですが。さすがに車酔いにはなりませんでした。自分の頭の中はどのようになっているか分かりませんが、飛行機で起こる縦揺れに弱いかもしれません。さて、岸の中腹に建てられている学校の第一印象は、校舎内がとても暗いの一言につきます。電気よりもビニール板などを用いて屋根を張り直すべきだと思います。しかし、ここで学んでいる子供達はとても明るかったのは確かで、この子供達に鉛筆を与えるととてもうれしそうだった。中にも二本以上取る隠すのが上手な子供がいましたが、とりあえず平等に、そして最後には「ナマステー。」
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ネパールにて
岩崎 文子
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早朝まだくらがりの中、自宅を出る。雲の上の明るいなかを西へ西へ太陽のしずむ方向に飛行機は飛ぶのですが、カトマンドゥに着いた時はすっかり日がおちていました。
第一印象空港の明かりが暗い、またホテルにむかう沿道に、何か売っている店がボーと電球一つという暗闇の中にポツン、ポツンと明かりが見える。ホテルに着くなり遅くなるとシャワーの水が無くなるという事なので急いでお風呂に入る。茶色のお湯が出てきた。これからどういうことになるのだろう、と思いながらも長い空の上のエンジン音から開放され眠りに着く。今日五日目、ルンビニに着く、校庭で子供達が並んで待っている。手作りの花のレイを私達に沢山掛けて大歓迎してくれる。校舎の施工式を村人や村長も参列しテープカットで新しい教室のドアが開かれる。今まで菩提樹の木陰で勉強していた子供達への校舎の贈り物は大きな希望も含まれているのでしょう。お土産のエンピツやノートを子供達に一人一人に手渡す。こんなに喜んでいる。大きな瞳が「ナマステ」と手を合わせて輝いている。ラマさんがテニスボールを数人に一つを渡していたがそれを奪い合っていた。マーヤ聖堂で東さんの奥様の三回忌を斎藤会長の読経で執り行った。「東さん良かったですね」奥様が東さんとこの素晴らしい旅に出会わせてくれたのですね。私もこの旅に参加できこの仏教の聖地に来れた事はきっと大きな何かの力のおかげのような感動を覚えました。最後の日はまたカトマンドゥの始めのホテルにもどりました。もう不安もなく荷造りしながらも、ネパールの地に愛着を持っている自分に気付いていました。悠久の昔どんなにか素晴らしい文化の地だったのか、歴史ある建造物が建ち並び町そのものが博物館のような町がカトマンドゥの近辺にはいくつもあるのです。子供達がどの子も大きな澄んだ瞳で笑顔が何とも言えないほど可愛い、女性も目鼻立ちがはっきりとしてホッソリとして色のはなやかなサリーを纏いイヤリングや鼻ピアス等本当におしゃれで美しい。
私達はこの地に教育支援のボランティアで来ました。しかし私達が忘れたものがこの地には沢山有ったのです。今、色々の事で日本の子供達は病んでいる。その解決のヒントがここにあるような気がしました。どこにいっても町の中に牛や犬や動物が仲良く人間とともに生きている。急がず、自然のままに信仰厚く、人は優しく笑顔が有り、素晴らしい国でした。大きなエネルギーを頂いて来たような気が致しました。
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マイ タンセン
坂 育夫
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今回はタンセンを二度訪れた。ポカラから一往復半の乗り合いバスの旅である。ネパールの友人から(モティー君)「臭いですよ」といわれたが、すでに僕自身がにおっていたのか、いっこうに気にならなかった。むしろ前回のマイクロバスでのタンセン行きよりも、運転がノンビリと丁寧で風景や人物とのかけあいに時を忘れた楽しい六時間であった。そしてタンセンである。わずか1キロほどの街道の町を来た者にとって、驚きの空中都市である。(それゆえの水不足という悩みは後で聞かされたが)
最初の訪問で、僕はポカラで五日間二千円でやとった青年と、バス停前のホテルに宿をとった。200ルピー(400円弱)の部室が少々せまかったので、250ルピー(500円弱)の最も立派な部屋に泊まった。途中のサンジャーというホテルでも一番いい部屋が250ルピーだったので、インドからの旅行者や、ネパールの金持ちの旅行者用のホテルの相場はこんなものらしい。さっそく街を歩く。おみやげ屋のない商店通りへの急な石畳の坂には閉口したが、彼等の優しいまなざしに心がなごむ。そして二日間、小学校や大学の校長さんとの事前打ち合わせ行ったが、なにしろ小学校もまともに卒業していない、働きながら賢明に聞き覚えた日本語と英語を使う安い通訳の青年(実際は少年に思える小さなキャシャでクネクネした男の子である)まるで校長先生にしかられている風情でなんとも心もとないが、彼は生まれて初めて経験する立派な仕事?に有頂天になっていた。(後々会の皆様に御迷惑をおかけしましたが)なんとか大任を果たし、僕等はポカラに戻る事になった。その夜、青年を夜遊び(ビリヤードが好きらしい)に開放した後、奇妙な人物が僕の部屋を開けた。僕の顔を見てあわてて「失礼」か「ソーリー」といって扉をしめた人物がいた。
後で青年に話すと、彼は日本人で、日本の友人を出迎えるためにこのホテルに宿をとったOKバジと呼ばれる人物だというのである。日本人などめったに来ないホテルに僕が泊まったので勘違いしたという。なんでも彼はこの周辺では有名な人物で、近くの田舎に村人達に家を建ててもらい、そこで生活しながら何十もの学校を援助している日本人らしい。OKバジとは最初は英語もネパール語も知らない彼がなんでもOK,OKと引き受けるので、バジ(おじさん)尊称?をつけられてOKバジと親しみをこめて呼ばれているという。
僕は翌朝ホテルの人に彼の部屋を訪ねてみたが、すでに前日の夜に日本人を迎えにバイラワにむかったという返事しかもらえなかった。二度目のタンセン行きはミカの会の人達との合流の為である。走り慣れた乗り合いバスは相変わらず性ににあう。途中のランチ停車d、美味だった村のタルカリ(つけ物)を10ルピー程買い込んでタンセン入りした。
その日から皆んなのホテル横の1500ルピーのロッジ(タンセン一の料理店のオーナーの別荘)に二日とまり、ミカの会の教育支援の旅を共にした。
さすがに楽しく充実したものであった。図書を寄付したどの大学でも、心からの感謝を受け僕達の支援の確かさを実感し、セン小学校の交流授業においても、子供達との信頼関係の確かさに豊かな喜びが感じられた。我々はこの旅を大切に守らねばならない。僕は感動の中でそう思った。そして部屋に戻った後、ロッジの水が出ない事態に直面した。ミカの会の人達も一流ホテルのはずが水、特にホットシャワーのおそまつさにあきれられた人もいると思う。僕自身もこの事で、管理人に聞いたところ、このロッジで使う水は、わざわざ下のレストランから運んでくる水をためているらしい。また広場の物知りおじさんの話によると、この街の水は、近くの日本のODAが援助したダムから来るらしい(彼はこれも日本の岩村博士の尽力でできたといっていた。)そしてずいぶん便利になったが、丘の上にホテルがひんぱんい利用するので、街の発展には好ましいが住民の負担も大きいんだとこぼしていた。特別な割り当てがあるらしい。
我々は実に水の豊富な国からの訪問者であり、欧米においても質の良し悪しは別にしてそうであろう。われわれの快適な条件の一つは水に負う所が多く、当然それに慣らされている。ホコリぽいネパールを支援するわれわれにとって、高いホテル代を払う欧米人にとっても湯水を湯水のごとく使うのは、当たり前の感覚だが、支援する側でなく、受ける側の感覚も理解していきたい。そんな事を思いながらなんとかOKバジと呼ばれる人物と日本で再会していろいろお話を聞きたいと感じた二度目のタンセンであった。
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初めてのネパール
加藤 末子
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私が初めてネパールに興味を持ったのは三年位前です。自分の眼でエベレスト、ヒマラヤを見てみたいと思っていた所新聞でミカの会の事を知りすぐ入会しました。そして今年初めてのネパール教育支援の旅となった訳です。カトマンドゥについておどろいた事に終戦後の日本のような光景です。バスにむらがる子供達の中から見るカトマンドゥの街にただびっくりです。バイサリーホテルに着きいざお風呂と思いコックをひねると茶色お湯ぬるい、風邪をひくといけないので顔だけ洗いねる事にした。朝六時三十分頃より浜崎さんと朝の散歩に出かけ、よってくる人力車の人、生ゴミをあさる人の姿にちょっとショックでした。一軒のコーヒー店の前、開店準備中にもかかわらず、どうぞと言うので庭でコーヒーを飲み、おいしいのでミトサと言うとおかわりを持ってきてくれ、朝からとても良い日になりそうでした。カトマンドゥ、ポカラで道路工事をしていましたが重機らしき物もなく手作業でした。あの調子だとあと何年かかるかと思いながら車窓よりながめていました。ダンハスは天気も良く最高のトレッキング日和になりそうでした。私は体調があまり良くなく大谷さんにおいたてれながら歩いていました。途中から体調も良くなり村人、子供、風景などをながめながらのんびり楽しく歩く事が出来ました。夕食が終わると村人がダンスをしに来てくれ私も年甲斐もなく踊ってしまい皆さんににやかされました。外に出ると満天の星日本ではなかなかみられない星にただうっとりです。あくる朝は上天気でアンナプル、ヒマラヤ、マチャプチャレが手の届く様な所で見ることが出来、本当に幸せでした。ヌダウンギリがすみの方で恥ずかしそうに見えたのも印象的でした。シリ・グルマニア小学校は皆制服を着てとても行儀良く並んでまっていてくれました。おみやげを配る時も皆さんきちんとしているのにはびっくりでした。セレモニーも終わりバスの中からてを振りながら子供達にも今度いつ逢えるかとおもいながら次のシリ・アディアリ小学校へと向かいました。前の小学校とは違いおみやげを渡すのも大変でした。全盲の少年t出会いましたが、きたない服、ハダシの姿に胸が痛む思いでした。この少年にノートと布袋をしっかりと手渡して出来ることなら次回も是非逢いたいと思いました。保健センターの前にて山下さんの井戸で若者が身体を念入りに洗っているのが印象的でした。村長さんの案内で部落を見せていただき大変よかったと思いました。どこへ行っても子供達のステキな笑顔を見ることが出来てとても幸せです。身につけている物はとても粗末ですが心はとても幸せそうでした。学校は私の頭の中にえがいていたものとは違っていましたが真っ白いカベ、ブルーの窓がとてもステキでした。人、牛、ロバ、ヤギ、犬、猫ものんびりと働いているのは女性と子供、男の人は何をしているのかしら、、、
私達は二班でタンセンの感想文を書くようでしたが、私は熱を出してしまいホテルで留守番、学校訪問も出来ずとても残念でした。今回は体調が悪く皆さんの後ろについて歩いた様なものではずかしく思います。次回参加する折りは少しでもネパールの事を勉強して参加したいと思いました。皆様には大変心配をかけまして申し訳なく思っています。幹事の皆様大変ご苦労様でした。これからもネパールの子供達の為頑張りたいと思います、急がず。
ビスタリー・ビスタリー
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初海外〜ネパール〜
藤本 裕樹
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本当にネパールまで来てしまった・・・
これは、私がネパールの大地に初めて降りた時に思った感想である。降りる前に、飛行機から窓の外を覗いてみると、星屑と間違えんばかりの街灯が我々を迎えてくれた。この時ばかりはさすがに、本当に最貧民国なのだろうか・・・と思ってしまった。この勝手な憶測もすぐに吹きとんでしまう事になるとも知らないで・・・東南アジアに一度でも行ったことのある方は後に述べる事は経験しているのだろうと思うのだが、輸送してもらった荷物を空港で取ってカートに乗せて運ぼうとすると、何やら現地の人らしき者が我々のカートを押してゆく。最初は空港関係かと私も思った。しかし、すぐに違うとわかった。彼らは、お金を出せと要求してきたのだ。これにはさすがにまいってしまった。いわゆる軽いカルチャーショックを受けたのだ。しかし、帰国後にはあまりの寒さと履いて大流行の厚底ブーツにたいへんな逆カルチャーショックを受けることになるのだが・・・・そんなこんなして、ネパールについてからというものとても忙しい日々を送っていたように思える。二日目、この日は国分寺から参加したメンバーとの話し合いの結果、トレッキングをするということになった。上りでは、増田さんが大変な目に遭っていた。無理もない、一回も山登りを経験していないというのだから、体のどこか一部分でもおかしくなるのは納得がいく。あまり言いたくないのだが、そういう大切なことは前もって話をしてもらいたいものだ。 でも、あの忙しさだ。正直言って、そんなことを誰も構っていられなかっただろう。しかし、増田さんは周りの人に迷惑をかけまいと必死で登った。すばらしい根性だ。しかし、下りではその気遣いのせいで自分の体を壊すことになってしまった。いつも思うのだが、運命というものはなんと皮肉で塗り固められているのだろうか、上から登ってきたポーター(荷物を上り下りまで運んでくれる人)を避けようと下りながら左の方へ行ったところ、足を滑らせ転んでしまった。この瞬間、最悪の事態が脳裏を過った。骨が折れているのでは・・・?そう思った私は、平然とした態度をとった。
私も幼い頃、塾行く途中、車にはね飛ばされたことがあり、どうも人間というのはこういう危機的な状況に置かれると、周囲が心配すればするほど自分が不安に陥ってしまうものらしい。あの時は私もさすがに死ぬと思った。そういうことがあったので増田さんの気持ちが手に取るようにわかった。何故、無事でいられたかというのは、一つだけ言える。モティさんがずっとついていてくれたからだろう。本当にありがとう。そして、お疲れ様でした。そして、その本人は元気に歩いていたのだが、帰国後、本当に腰の骨は折れていたようだ。この8日間、気力で歩き続けたのだったら、相当なものである。
いや、もしかしたらネパールという国がそういう不思議な力、見えない力を与えてくれたのかもしれない。
それにしても、異国はすばらしい。五日目、我々一行はルンビニという町を目指していた。気温は20℃前後といった所だろうか、日本が寒いせいかかなり熱く感じた。サイパンの30℃に比べればたいしたことはないのだが・・・。このルンビニという町では、かなり勉強になることが多かった。日本がいかに裕福かというのもこの町を訪れて初めてわかったように思える。まず、保険センターを見た時。この建物を見た時、普通の民家と間違えてしまいそうになったぐらい見分けがつかない。ベッドは一つ、窓から子供が「なますてー!!」と叫ぶのが聞こえる。返事をしてあげたかったのだが、この保険センターの中にあるものが私の目をひいた。もう一つは屋根である。いわゆるプレハブ校舎の壁のような物でかなりもろい。雨期になると日本の梅雨など比較にならないほど莫大な量の雨が降るのだから、とても屋根の役割を果たしているようには見えないし思えない。
ボランティアというものは非常に難しいものだ。何故なら、どこまで介入しても大丈夫なのかという一線が全く見えないからだ。その一線から短いボランティアでも駄目だし、その一線えお追い越したボランティアでもいけない。だから斉藤先生のおっしゃられた「我々は別にネパールに対してたいしたことをしているわけではないのだから、その辺の謙虚さを忘れてはいけませんね。」という先生の言葉を町田の人達も国分寺の人達も心に刻んでボランティア活動を続けていただきたい。我々はこの言葉を裏切るような活動をしてはいけない。このルンビニで皆様が一番感動したと思われる法華ホテル。日本食が出るということでみんな笑顔がこの五日間で全く違っていた。ある人は「あ〜!日本に帰ってきた!」と言う人もいた。みんなの本音が飛び交う中、夜がふけていった。いろんなことを考えながら寝ていると、同室の増子さんが蚊に悩まされていた。ものすごい数の蚊がカーテンに貼り付いていた。蜘蛛も出た。さあ、これでようやく寝れるな。そう思って再び眠りについた時だった。どすどすどす!!何の音だろう、目を覚まして見てみると、なんと巨大なヤモリが壁を這っているではないか!!思わず絶句した。増子さんが「ここはアニマルパークかよ〜!」と叫んだ。その夜は、蚊を殺すパチンパチンという音と私の笑い声が絶えなかったのは言うまでもない。六日目、あまりいい目覚めではなかった。笑い疲れたのと、パチンパチンという音が耳に焼きついたからだ。
まず誤解のないように訂正してお詫びしなければならないことがある。
保険センターの訪問はこの六日目である。訂正して深くお詫びしたい。この六日目ではまずここの人々の顔立ちに注目した。顔付きがどうもインド人に似ている。それもそのはず、このルンビニという町はネパールとインドとの国境の真上に位置しているから似ていても全く不思議ではないというわけだ。
しかし、ネパールの人々は大変親切だ。蜘蛛を探して下さいと頼むと、本当に真剣に探してくれた。どうも日本人によくありがちな“私には関係ないから・・・”という考えがあまりないようである。でも、日本の人々のみんながそういう考え方を持って行動しているわけではない。日本に居て最近よく耳にするのだが、最近の子供は感情気薄でいやねぇ・・・。“と言うけれども、そうじゃない。
周囲の風当たりがあまりにも厳しいため、気が強くなければ耐えていけないのである。これは、必ずしも両親が自分の子供が何かしでかした時に味方になるわけではないという例とも少し関連がある。自分の子供が学校でイジメに遭遇しているにもかかわらず、「おまえが悪い」だとか間接的に自分の子供を攻める親というのは、まるで人をいたぶって喜んでいる“ロボット”のようにしか、私には見えないのだが。それはともかく、ネパールの子供達はとても素直な子ばかりでかわいかった。ちゃんと言うことを聞いてくれるし、とてもいい子ばかりで関心するばかりである。このルンビニでは、観光だけでは決して味あうことのできないもう一つの異国の魅力があった。7日目、ルンビニ〜ヴァイラワと渡り、そしてチャーター機でカトマンドゥへ前日移動し、いよいよショッピング。バクタプールで感動を味わった私は、斉藤先生が王宮広場なる所へ行くというので、無理を言ってついていくことにした。行ってついてみると、なんとバザーを開いていた。その数が計りしれないほどだ。私は自分の欲しかったペンダントのことを思いだし、一生懸命探した。二店だけ置いてあった。一店目は、すごくしつこそうなおばちゃんだった。 ペンダントを見ているといきなり他の2つも見せてきた。かわいそうになってきたので「3つでいくら?」と聞いてみた所、「千五百ルピーでどうだ?」と言ってきた。あまりにも腹がたったので、「三百ルピーでしょう。」と言ったら、一歩も譲らないので、「もういらないよ。」と言ってその場を後にした。しかし、このおばあちゃん相当なくせ者であった。二店目はおじさんだった。このおじさんはさっきのおばちゃんと違って、かなり優しい人だった。「二百ルピーでどう?」と聞いてきたので「いや、百ルピーだよ。」と値切ったら一発OK。見事百ルピーでペンダントを購入することができた。しかし、それで終わりではなかった。あのおばちゃんである。ものすごい執念である。ここまでくるとあきれるを通り過ぎて感動すら生まれてくる。しかし、だんだんそのおばちゃんの方が値切ってきた。結局最後はおばちゃんの方が折れて、三百ルピーで素敵なペンダントを3つも手に入れてしまった。前日に坂さんや東さん達とスーパーへ買い物に行ったので、再びスーパーへ訪れてみた。七種類の豆の入ったものなどいろいろ珍品が多かったので、土産はすべてここで購入した。しかし、旅を終えてみて、色々あったが、まず真先に言わなければならないのがラマさんとモティさんへの感謝の気持ちである。本当はこのような文で表現できるものではないけれども、本当に心から感謝します。本当にありがとう。 それからミカの会の皆様にも大変ご迷惑をおかけしましたこと、本当に申し訳ないと思っております。また、何かございましたら、ご連絡ください。そして国分寺の皆様にも大変感謝しております。ただ、もう一つ欲を言えば、もう少し参加する人が多ければよかったなあと。来年行くことがあるのでしたら、もっと多くの参加を願っております。
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ペリ べトゥンラ
田所 希佳子
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私はこの八日間でたくさんの貴重な体験をしました。特に印象的なのがカルナとの出会いです。カルナはセン小学校の五年生で、私たちがおりがみやけん玉を教えた生徒のうちの一人です。彼女はとても人懐こく、授業が終わって私たちが帰ろうとしてもずっと後をつけてきました。彼女の家は私たちが向かうレストランの近くらしかったので、一緒に帰ることにしました。カルナと夢中で話していると、長い道のりもあっという間でした。別れて少し経つと、カルナが弟を連れてレストランにやってきました。私はこの思いがけない再会をとてもうれしく思いました。しかしその反面、別れも惜しくなりました。私はこの時、また来年も来たいなと思いました。私たちはその後、タンセンでのんびりと買い物を楽しみました。ネパールの人々は、見知らぬ私たちにも笑顔でナマステしてくれます。そんな和やかな雰囲気が、私はとても気に入りました。
 そうしてぶらぶらしていると、後ろから誰かがつついてきました。振り返ってみると、そこにはカルナがいました。私はこの劇的な再会に感動しました。まさかまた会えるなんて。さらにカルナは私たちを家に招いてくれました。家には彼女の両親、姉弟、そして二人のおばあさんがいました。みなさんとても温かく私たちを迎え入れて下さいました。屋上で食べた、カルナのお母さんの手作りのおやつの味は最高でした。
 この、偶然のめぐり合いと温かいおもてなしが、私にはこの上ない喜びでした。だからその分、別れは辛く悲しいものでした。ほんの数時間前までは全く知らない人だったカルナが、とてもいとおしく思え、私は涙を流さずにはいられませんでした。しばらくの間、私と和田(邦)の二人は泣きじゃくり、その場を離れることができませんでした。しかしそんな時でも我らのボス江波戸さんは冷静で、「もう時間よ」と言いました。その一言でやっと別れを告げることができました。 次の朝、せっせと支度をしていると、青沼さんの呼ぶ声が聞こえました。「お客さんだよ」その言葉にはっとし、全速力で階段を駆け下りました。階段の下にはカルナがいました。カルナはこんな朝早くに独りでわざわざ会いに来てくれたのでした。きのうが本当の別れだと思ったのに、また会えたのです。カルナによると、カルナのお母さんは私たちが帰った後泣いてくれたそうです。なんていい人たちなんだ。もう泣くまいと思っていたのに,人生経験の少ない私にとってはとてもたえきれぬ感動でした。私はこの旅で、出会いはこんなにも人の心を動かすものなのだと思いました。これからの人生でもその一つ一つを大切に受け止めていきたいと思います。

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ナマステ!ネパール
青沼 義信
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念願の「第4次ネパール教育支援の旅」に参加させていただき、ミカの会の真の活動を体験でき、また記録係としてレンズを通してネパールの人々の生活の一端を直視できたことは、ネパールの現実を理解する上で大きな経験となった旅でした。ネパールについては「エベェレストを始め7・8千メートル級の山々が連なるヒマラヤ山脈と登頂者を支えるガイドやポーターで知られるシェルパ族が住む」くらいの知識しかありませんでしたが、この国の歴史は、神話に始まるほどの文化の層の厚さがあること、また多くの民族の集合体から成り、ヒンドゥー教・チベット仏教他、それぞれに宗教があり、人々の生活は信仰の上に成り立っていること、古くから日本人の心のよりどころとしてきた「釈尊ブッタ」生誕の国。などなど、非常に奥深い国であることを強く認識した旅でもありました。憧れのヒマラヤを間近に見れるダンパスへのトレッキングは快適そのもので、尾根に着いてからのヒマラヤの山々に接した時には、感激のあまり思わず歓声を上げてしまいました。特に早朝のマチャプチャレ、アンナプルナ山群、西方に遠く望めたダウラギリは、昨夜の満天に輝く星空と共に、期待以上の荘厳な光景を見せてくれました。三月八日は学校訪問初日でトリヴァン大学理系・文系、セン小学校等タンセンの五校を訪問しましたが、図書室の書籍や教材のあまりの少なさに「これで勉強できるの?」の疑問すら感じたほどです。それだけに大谷氏が調達されトリヴァン大学理系に寄贈した「顕微鏡・マイクロメーター・ノギス」を手にした教授や学生の喜びようはひとしおで、熱心に取扱説明を聴いていたのが印象的でした。三月九日・十日はルンビニで小学校6校、及び保健センターの訪問でした。その内、次の三校で新築校舎開校式がありましたが、生徒達は裸足が多く生活の貧しさをひしひしと感じました。しかし遠来の客を歓迎する意か、洗いたてのシャツで、髪にリボンを結んだ子もいて、みないきいきと目が輝き、花のレイを持って整然と私達を迎えてくれたことに思わず目頭が熱くなりました。会支援の校舎新築小学校シリ・グルワニマイ小学校。シリ・ルンビニ小学校。シリ・シリ・ラム小学校。
しかし一方では、道端で『スゥイ―ト』とか『ヒャクエン』などとねだる子供たちが絶えないことは、学校へ行くこともままならない貧しさによるものでは?と、寂しくやりきれない思いでいっぱいでした。ベット等を寄贈した保健センターを訪れましたが、予算の不足から保健婦さんがいなくなったとの事で有効利用がなされておらず、住民の健康管理はどうなっているのか非常にきになるところでした。
カトマンドゥでは、パドゥマ・カニヤ・ビディヤシマ女子校を訪問し図書を寄贈、今回のネパール訪問の目的は終了です。この旅を通じて多くの事を考えさせられました。特に日本との格差は、経済的にはやむを得ないにしても、心の純粋さには学ぶべきところが多いと感じたのは私ばかりではないと思いますが?。
親身にお世話下さった、ラマさん、モティさんには心からお礼を申し上げます。
ネパール病経過報告
和田 邦子(ネパール名 スンマヤ)
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叔母の話をきっかけにネパールを知り、ネパールを訪ね、ネパール病にかかってはや一年。昨年の帰国から一年間私のネパール病は一時小康状態に落ち着いたものの、再び発病したのは言うまでもない。高校生になった私は地理の授業で「世界の国調べ及び発表」という機会に恵まれた。私の番は一月中旬にまわってくるにもかかわらず、発表テーマも下準備も、五月に行われたラマさんの講演会のときから進めてあったほど気合いは十分だった。さて私が興味をもったのは、あの独特の文字だ。行く先々のどの町でも、すぐに目に付くあの文字が、とても魅力的で忘れられない。しかし全く読めない。そしてもう一つ。ネパール語だ。「心が通じ合えば言葉なんていらない」もっともだと思う。だが、お恥ずかしながら「ナマステ」しか知らないのは情けないと思い、積極的に学ぼうと決意した。古くからの友人・田所さんが覚えた「サン
チャ イチャ」(お元気ですか)から始まり、数の数え方、そして名前の聞き方・答え方までごく日常的ではあるが、たくさんの言葉を教えていただいた。我らのネパール語の先生はラマさんやモティさんをはじめとし、飛行機の乗務員の方からホテルのボーイさん、フロントの方、そして幾度となく“No“を繰り返し、発音を厳しく直してくれたタンセン少女カルナや塩屋の娘の姉サビタまで、老若男女問わずして、皆こころよく接してくれた。英語に限らず、日本語すらも満足に話せない私であるが、ネパール語は今後も学んでいきたいと思う言語である。さて、上部の横線が特徴的なあの文字はやはり難しかった。一週間で得られた成果は、自分の名前を書けるようになったこと、数字を読めるようになったこと、そして、あの文字に以前より親近感を持てるようになったこと。書き並べてしまえば、寂しいものだが、頭で覚えた理解したというよりは、覚えた以上にたくさんのことが刻まれて、多分この先もずっとわすれられない大切な思い出となって心にしまわれていくだろう。私のネパール病は帰国してからもずっと続いている。おそらく完治することはないだろう。また、人の道でも、剣の道でもまだまだ修行が足りないから、わたくしはもう一度出直して参ります。そして居酒屋デビューはカトマンドゥですると固く決意してネパールをあとにした。フェリ べトゥンラ(また逢いましょう)最後に、ダンプス行きを勧めてくださった泰子叔母さんをはじめ、未熟者の私をネパールへ連れていってくださったミカの会の皆様に感謝します。本当にありがとうございました。 ダンネバー。
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Nepal
後藤 栄
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三月六日
 ダンパス・トレッキング組を見送った観光組の七名は、午後二時にライトバンでブルーバード・ホテルを出ると五分程でぺワ湖に着く。五名の方達は学校に向かわれ、片岡氏と私は先にホテルへ帰れるようにとラマさんがタクシーを四時に予約して下さった。いかだで対岸のフィシュテール・ロッジへ渡る。十年前に来た時と同じ庭にはブーゲンビリア、ポインセチア、キンレイカ、マリーゴールドなどの花が咲き、ハンモックがゆれている。ぺワ湖の水面が光って見えるロッジの庭は陽ざしが強く、木陰はリゾートで来ているヨーロッパの人達で休むベンチもない。レストランで飲みものを注文して暫く休んだが四時のタクシーが来る迄一時間以上もある。ガードマンに、タクシーが来るまで木かげで休みたいと伝えると、タクシードライバーはすでにここへ来ていると云う。対岸で手を挙げて合図をしていたドライバーはえんじ色のシャツを着ていたが、黒シャツの人が側に立っていてわたしがドライバーだと云う。信じられない気持ちでいると、『ノープロブレン』といかだに乗せられた。見物人はなりゆきを楽しみながら一緒に付いて来る。ドライバーはずっと私達の近くにいた訳で、何も知らないのは私だけだった。約束の時間ばかりにこだわって人を疑っていた私にはビスタリへの道はかなり遠いと反省した。対岸に停まっていたタクシーに乗車すると助手席へ制服の人が同乗して無事にホテルに着いた。夕食のあと七名で夜の街へ出掛ける。広い通りの両側に店の灯りがどこ迄も続く。珍しい土産品を並べた店をのぞいたり、買物を楽しみながら歩いた。
三月七日
 早起きしてサランコットの丘へ日の出を見にゆく。ライトバンに七人乗って五時四十五分出発した。空はまだ暗いが車はスピードをあげて山道を登って行く。車を降りて斜面を登る頃には足もともすっかり明るくなって、まわりの丘陵や段々畑がはっきり見えてきた。丘に登り着くと、日の出前の静けさの中にヒマラヤ山群がそびえていた。東の山頂が一瞬輝いてご来光が始まった。アンナプルナ南の高い峯の一部が燃えるように輝やき、次にマチャプチャレの白い山頂がオレンジ色に光った。太陽は見る間に昇り、目の前には荘厳なヒマラヤの山々が並ぶ。この瞬間こヽに立って感動を体験出来た幸せを深く感謝しながら美しい連峰を見上げていた。ぺワ湖へ下る。ボートに乗って湖上へ出ると水面にヒマラヤの山々が映って静かにゆれている。水の底に魚の群が動く、心が満たされてゆくような穏やかな時が過ぎて行った。トレッキングの皆さんをお迎えにライトバンにゆられて山道を登る。売店の前の木かげで暫く待つと、陽焼けした元気な姿が急斜面を降りて来るのが見えてきた。ご苦労様と手を振って迎える私には一人一人のお顔がとてもまぶしく映った。
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タンセンの学校めぐり
濱崎 ヤスエ
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 第4次ネパールの学校訪問は、三日目のタンセンからはじまった。先ず到着した夜、子供達へのプレゼントの仕分け作業。あけて四日目はいよいよ五校の学校訪問。トリヴァン大学理系〜文系〜セン小学校〜モホン女子校〜シリナガルサイエンス校とハードスケジュールである。発熱で体調をくずした加藤末子さんをホテルに残し早目に出発する。スタートはホテルに近いトリヴァン大学理系校。丘の上で学長が私達の訪問を待っていた。『ナマステ』『ナマステ』。ラマさんのアドバイスに従い、一人一人丁寧な挨拶をする。
 タンセンのシンボル的学校トリヴァン大学は両校合せて学生数3200人。朝六時から夜八時まで三部制の授業が行われていると言う。先ず図書館の見学。二年前は冊数も少なく、ほこりをかぶってひどい図書室だった。が百冊をこえるミカの会の寄贈図書で生気を取戻し、図書室らしくなっていた。学生達のよろこびも伝わってきて、図書援助の重みを実感する。次ぎの分系校では学校挙げての歓迎式。教授、学生が大勢出席し、何人もの代表者のスピーチ。まず日本では考えられない。これがネパール流というものなのだろうか。お茶の接待もあって時間オーバー。気温も上がり日差しが強くなってきた。急な坂道を下ってセン小学校へ。子供たちの元気な声にむかえられる。前日に知らされるが今年もまた学年別授業(ゲーム)をやることになる。一年から五年まで五クラス。遊戯、折り紙、自画像描きとそれぞれの班で頑張る。
私達三人で担当した二年生は、プレゼントとして持参した紙風船とくるくる笛遊びに大騒ぎで喜んでくれた。慣れないことに戸惑うが逆に子供達に遊ばせてもらう。セン小学校は歴史のある立派な学校。町田第一小学校と交流があるそうなので、そうした学校どうしの交流がいいような気がした。遅めの昼食でひと息。
 四番目のモホン女子校は「女の日」で休校。先生との交流になる。休み返上で出席された先生達は意見交換をもっと望んでおられたが時間がなかった。シリナガルサイエンス校は役員のみで訪問。3時半、やっと自由時間となる。タンセンはミカの会の好きな街。観光客も少なくて街の人々の自然な暮しぶりが見られる坂の街で車も少ない。やさしく受け入れてくれる山を眺めているだけでよい。折角のタンセン、あと半日の時間がほしかった。次回はナマステ、ビスタリ―の他にニ〜三語のネパール語を覚えて訪ねたい。
 最後にラマさんに感謝します。的確で素晴らしい通訳でした。各訪問校での労は大変なものでした。ラマさんあってのミカの会。今後は彼の負担も考え、会員も楽しみながら支援活動ができる会になってほしいと思いました。

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私の「カトマンドゥ」
加藤 雅子
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カトマンドゥは、赤れんがと土埃の町でした。それは、ほとんどの建物が赤れんがで出来ていて、町全体が赤茶色に見え、さらに、車の排気ガスと、車がまき起こす土埃で、うっすらとモヤが、かかっているように見えるからです。着いた日は、夜で外はもう暗く、ホテルへ向うバスの中から見たカトマンドゥは、うす暗い街灯の中を多くの人々が行きかい、活気のある町並で、心の中からゾクゾクしたものを感じました。
 次の日、朝早く起きて、スワヤンブナ―トへ行ってきました。小高い丘の上にある寺院からは、カトマンドゥの町が一望できます。着いてほどなく、朝日が昇り始め、思わず太陽に向かって、手を合せ、この旅行が無事に終わることを祈りました。次にカトマンドゥにもどってきた時は、ポカラ、タンセン、ルンビニとネパールの中の田舎の、のんびりした所から帰ってきたので、カトマンドゥの町中を行く人々の顔つきがキリッと違うように見え、外国人も多く、さすが首都、観光地と思いました。今回初めて訪問したカトマンドゥのパドウマ・カニヤ・ビディヤシマ女子校は、建物も立派で、学長、先生方の暖かいおもてなしと、自信に満ちた笑顔が大変魅力でした。又、鮮やかなグリーンに赤のふち取りのサリーがステキで印象に強く残っています。ネパールを旅して、日本では男性が行っている力仕事を女性が担っている光景を多く目にしました。これは女性の地位が低いということでしょうか? 同じ女性として、ネパールでは当たり前の事なのでしょうが大変複雑な思いがします。ネパール最後の日のバクタプール。カトマンドゥから15キロ。赤茶のれんがの建物がびっしりと並ぶ古い町で、どこを歩いても、どこを見ても美しい家並み、古く風格ある寺院、そして日常の人々の生活がうまく解け合い、いつまでいても飽きないのではと思います。今度、又訪れることができれば、迷路のような道を好きなように歩いてみたり、広場の石畳の上に座って、ボ―ッと道行く人をながめていたいです。ネパールの旅の八日間は、密度の濃い、長く感じられる八日間でした。帰ってからの一週間は、気持ちがふんわりとして、何事にもやさしい自分でいられました。これからもそんな自分でいられるよう、ネパールの山、星空、訪ねた町の人々を忘れずに、毎日をすごしていけたらと願っています。
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フォト・コミュニケーション
大谷 安宏
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第4次教育支援の旅は、カトマンドゥ空港で出迎えてくれた、先発の坂さん等と合流して総勢二七名の大部隊になった。予定している訪問先も落成式を行う学校三校、校流校三校、図書支援校五校、調査校ニ校、保健センターの十四個所とハードなスケジュールとなった。会長にいたってはポカラとバクタプールで更にニ校訪問するなど多忙を極めた。幸いに全行程天候には恵まれて、ダンプスからのアンナプルナ、ダウラギリをはじめと「神々の御座」と満天の星に感動し、またタンセン等の図書贈呈式、ルンビニでの落成式
なども順調に進められたのも、校舎建設、図書調達に奔走されたラマ氏のご尽力とともに、参加された皆様方のご協力によるものと感謝しています。特に今回の旅の手配に際し、国際交流基金の研修の合間をみて、現地との段取りをつけ、適切な対応で案内頂いたラマ氏に改めて敬意を表したい。
 郵政省のボランティア貯金、町田市国際交流基金をはじめ、多くの皆さん方の善意が真っ白に輝く校舎や、書棚に整然と並ぶ書籍を目の当りに感動し、学生や子供達の輝く瞳や笑顔に癒されるたびに、この事業参画させてもらっていることの喜びを改めて感じる旅であった。ただスケジュールの関係で観光に当てる充分に取れない企画となり、また点呼等に厳しすぎるとの指摘も頂いたが、今回の旅行をもとに忌憚のないご意見を頂き、次年度に向けてより充実したものにするようにしていきたい。
 昨年、大好評であったタンセン広場を会場に、大学生らの協力を得ながら開催した写真展は、地元のテレビ局の支援を受け行う予定であったが、主役の今村副会長が体調を崩されるという事態に、残念ながら延期とせざるを得なくなった。しかしながら地元の人達の写真に寄せる思いを考えて、今村さんから托された一二〇枚と合わせ二百五十枚の写真を持参し、直接本人に手渡すことで、継続的な交流が図れればと考えた。
 カトマンドゥ入りの翌朝、昨年九月に訪れたバザールに出掛ける。写真と顔を見比べながら、花売りのオバちゃんに写真を差し出すと、一瞬驚いた顔が実に嬉しそうな表情に変わり、何が何でも返すものかとばかりに、胸に抱きしめる。人垣が幾重にも集まり覗きこむ。チベット系の野菜売りのオバちゃん、竹籠に入れた鶏を売るオジさんなど、お互いに言葉は通じないながらも写真という媒体を介して、早朝の素晴らしいコミュニケーションを図ることが出来た。ダンプスの急な登りが一段落する茶店をバックに、水色のサリーの美人を撮ったが本人は見当たらない。店番のオバちゃんに差し出すと、実に嬉しそうな表情で見詰めている。オバちゃんの娘で名前はニーナだと言う。日焼けした顔に白い歯が美しい。『フォト キチ バニ フンツャ?』。ニコニコしながら首を斜めにする。尾根を登りきると今村さんの傑作「子どもをあやす若い母親」の店。声を掛けると幼児と赤子を抱いた母親。何時の間にかに子どもが二人になっている。和田さんの目からするともう一人お腹にいるみたいだと。山羊を抱いて石垣に立つ少年には直接。子どもを抱く
ショールの女は両親に。ここでも素敵な笑顔にダンニャバード。写真はタンセンのものが一番多い。ミカの会のアイドル「塩屋の娘=ラダ」のバタライ家だけても両親、長女、次女、ラダ、弟と三十枚位のセットと今村さんからの絵葉書を手渡す。いつもながら自然に見事なポーズをとるラダをパチ。パチ。今頃今村さんは??。居酒屋の「ダァーンの親父」は二階から覗いて『ウォー』と叫びながら駆け下りてくる。娘も飛んでくる。近所の人が集まってくる。床屋の親父は椅子をすすめる。靴屋の兄ちゃんに人だかり。照れる野菜売りのオバちゃん。顔見知りには俺が配ると請け負う生地屋の親父。笑顔でいつまでも手を振る小間物屋のネエチャン。この町は明るく屈託のない、実に気持ちの良い人ばかりで好きだ。ただ坂さんの情報で塩屋にカメラを向けにくい状況にあったことが返す返すも残念だ。
 昨年の中間調査の際にシリ・シリ・ラム小学校近くの部落を訪れてみた。部落の入り口の沼には小さな紫色の花が一面に咲き、のんびりと牛が歩き、小さな藁葺きの屋根が並ぶのどかな所だ。上半身裸の白い口髭の老人が子ども達と寄って来て、『地区に学校を建ててくれ、部落の皆は大変感謝している。その上、今日は部落を訪ねてくれとても嬉しい。わたし達は嬉しい時には甘い物を食べるのだ』『来春来る時はチョコレ―トでも持って来るよ』『いや。わたし達の部落には店がある』『じゃあ、行こうよ』部落の外れにある店に向かう列はどんどん膨らみ二十人ほどになる。袋入りの飴の値段を聞くと、『袋ごと売ったことがないので分からない』 ラマさんが大きな声で数えながら百ヶほどを買い、部落の家々を案内されながら配って歩く。通称「ルンビニのラモス」がいる。飴をかざして微笑むオバちゃん。『フォト フンチャ』パチ。パチ。たまたま訪れた部落だったが、ミカの会の行為が地域の人々にこれほどに認識され、大きな期待がもたれていることが、この老人からの言葉で確認出来たことは非常に大きな収穫であった。今回ここを訪れて直接写真を手渡すことは、時間の都合で出来なかったが、あの時の髭の親父は落成式の来賓席に座っていた。日焼けした顔に白い歯がひかり『ナマステ』と手を合わせている。手招きすると遠慮しがちに寄って来て、写真を差し出すと緊張した表情で覗き込んでいる。部落での写真を托すと『これは従弟だ。これは娘だ』と説明が始まる。校長も村長も集まり人垣ができる。自分の写真を胸に一枚。今日はお互いに嬉しい日のはずだが、甘い物は用意されていなかった。この老人の名前もどのような人であるかも聞きそびれてしまった。奨学生にも全員に配ることが出来た。皆、半年前より立派になった様に見えた。今回持参した写真は、直接本人に渡すことに務めてみたが、かなりを人に託さざるを得なかったが、手元に残ったのは、タンセンの
行者風の老人と中国系の三人の子供達の二枚だけだった。恐らくは旅人か近郊の人なのだろうか。いつか渡す機会があればと、何か気になる写真となった。写真は言葉が通じ合わなくても、多くの人と親しく触れ合える媒体として、大いに効果を発揮してくれた。また何時か今回の写真を介して懐かしく触れ合える機会があればと思う。 『ナマステ フェリ べトウンラ』 
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遠い昔を思い出させた旅
増田 加代子
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ネパールと言えば、山岳の神秘的な国というイメージ以上に詳しいことをご存知の方は少いでしょう。私も全く同じで、そんな私がまさかこの国を訪問することになるとは夢にも思いませんでした。そのまさかの訪問のきっかけとなったのは二つの出会いです。一つは、町田市の斎藤さん、坂さんとの出会い。お二人ともネパールに様々な教育支援活動を展開している「ミカの会」の中心となって活躍されている方で、このお二人との出会いによって遠かったネパールという国が身近に感じられるようになりました。二つ目がラマさんというネパールの青年との出会いです。彼はネパールで「ミカの会」との連絡に当っている人物ですが、彼を国分寺の国際協会の講演会や世界の料理教室の講師に招いたことから、ネパールは一挙に現実的な存在となりました。なかでも、ラマ青年が市内の小中学校三校での講演会で語ってくれたネパールの生々しい窮状の話は、私だけでなく小中学生や市民の方々にも、改めてわが国の豊かさや自分自身の恵まれた姿を見つめ直す良い契機となり、講演に感動した人達の間から自然発生的にネパールの子ども達に援助の手を差しのべようという大きな動きへと発展することになりました。この動きは予想以上の広がりをみせました。おびただしい量の鉛筆や消ゴムなどの文房具、それを入れる手作りの袋が寄せられ、こうした多くの人達のまごころをネパールの子ども達に伝えるために、遂に私たちも、「ミカの会」の教育支援の旅に同行する形でネパールを訪問することになったのです. このような二つの出会いをきっかけに初めて訪ずれたネパールでしたが、国の第一印象は、ラマ青年の言葉通りだと感じさせると同時に、私たちに、いつのまにか現代を遠くはなれ遠い昔にタイムトリップしたような錯覚を起こさせる国でもありました。首都カトマンドゥの街角に立ち並ぶたくさんの古い寺院、町の至る所に群がる野猿、野牛、野羊、木の下で営業する床屋、人混と小さな店でざわめくバザール、降りそそぐ日差、派手な色の少い色調、かすかに漂う臭い、くったくのない人々の笑顔??目にするものすべてが遠い昔の日を思い出させるような懐かしさがありました。私たちはカトマンドゥを起点に南下し、インドとの国境に近いタンセン、ルンビニの七つの小学校を訪問し、今回の援助活動に協力頂いた皆さんのまごころを子ども達に手渡しましたが、炎天下の校庭で整列したまま長時間にわたって私たちの到着を待ち、手作りの花のレイをかけて訪問を大歓迎してくれました。大歓迎の中、袋に入れた文房具を受け取る時に見せた子ども達のこぼれるばかりの笑顔と光り輝く目、はにかみながら出された少し黒っぽい可愛いい手、そんな様子を遠目に見つめていた学校に来られない子ども達のうらやましさと寂しさが入り混じった表情??これを見た時、私たちの中にネパールに降り立った時に感じた懐かしい感情が再び甦ってきました。何もかもが新鮮な感覚との出会いで
あったあの頃、遠く金色にかすんでいる幼い日々がはっきりと思い出されたのです。そして、ネパールの子ども達の姿の中に、ほんの一瞬、幼い頃の自分自身の姿が重なって見えたような気がしました。ネパール訪問は教育支援の旅であると同時に、訪ずれた私たち自身に忘れかけていた大切な記憶をよび起こさせてくれる旅にもなったのです。こうした感動あふれる旅は、最後に国分寺とネパールの子ども達の国際交流が開始できるという成果となって実を結びました。バクタプルというカトマンドゥの北東、車で三〇分ほどの所にある町の小学校との交流がきまったのです。バクタプルの町は赤茶のレンガ造の建物がびっしりと並ぶ古都。かって王朝時代の首都だったこともあり、ニャタポラ寺院の五重の搭が高くそびえ、歴史と静かさが残る、さながら国分寺を思わせる町で交流の相手都市としてはぴったりの町です。
 私たちが町を訪ずれた時は学校が休みの日でしたが、全員の子ども達が先生方と集まり、食事まで用意して交流の開始を喜こんでくれました。集まった子ども達の輝く目と交流にかける校長先生の熱い思いを聞いた時、全員がこの交流の今後のすばらしい発展を確信することができました。八日間のネパールの旅は、訪ずれた私たちに期待した以上のものを与えてくれました。直にネパールの空気に触れることにより、わが国の、そして自分自身の豊かさを見つめ直すことができたのはもちろんですが、同時に豊かさの中で忘れかけていた大切なことを思いださせて貰う旅にもなりました。こうしたきっかけを作って下さった「ミカの会」とラマ青年、なかでも、ネパールに対して、学校を作ったり、医療用ベットを贈ったり、井戸を掘ったりと様々な教育支援活動を続けておられる「ミカの会」の皆さんに心からお礼を申し上げたいと思いますし、私たちもまずは出来ることから始めながら息の長い地道な活動を続けていきたいと密かに決意したところです。

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ランタン・コーラ追悼トレッキング
和田 泰子
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ミカの会の充実した教育支援の旅を終えた後、娘とわたしはもう2週間ネパールに滞在した。今年は弟の七回忌で弟がレンズを透して向き合ったのではなく、登山隊の一員として登った山、ランタン・リルンをこの目で見てみたかった。3月13日、娘と私はランタンコーラのトレッキングに出発した。ポーターさんには申し訳なかったが、弟の重い写真集「ヒマラヤ」も一緒に。
 朝6時45分、カトマンドゥ郊外のバス乗場。ネパール映画のBGMか、大音響の音楽、けたたましいクラクションと共にローカルバスは出発した。トレッキングの出発点ドンチェまで一日乗っても140Rs.(230エン位)のローカルバスは、隙間だらけで窓も閉まらない。膝のあたりからヒュウヒュウ冷たい風が入り込む。入り口に人がぶら下がり、屋根の上にも人と荷物。私達が座った最前列だけでもエンジンの上に3人と山ずみの荷物そして運転手さん、その脇の窓に腰掛けもう一人、7人も座っている。トリスリで昼食休憩したが、食べると酔ってしまいそうで食べられない。バスは絶壁にへばりつくように作られた細いデコボコ道を、もうもうと土ぼこりを立ててガタガタと登っていく。私達はゴムマリになったように、はねっぱなし。ぐったり疲れた夕方4時30分、ようやくドンチェに到着。あいにく雨がふり出し、まわりの山々は白く染まっていく。
ああ、しまった!アルミの水筒を2本とも忘れた。これは重大なことだった。アルミの水筒はスグレモノで、熱湯を入れてもらうと夜は湯たんぽになり、昼はさめた水が飲料水になる。雨。寒くて暗くて心細い。寒さ対策にウールのショールを2枚買う。
 翌朝はまぶしい青空。ラッキー!! 夕べの雨で、ほこりの道もしっとり落ち着いている。いよいよトレッキング開始。ガイドはダンプスに一緒に登ったサビンダさん。ポーターは義理の弟ペンマくん。今日は5,6時間の歩きでのんびりしたものだが、途中のバッティで頼んだ昼食が、出てくるまでに一時間半もかかったのにはびっくり。それぞれ注文したものを一つのかまどで順番に作るためらしい。山の中はますますネパーリタイムだ。今晩の宿泊地、シャブル(2230m)はここ独特の織物を女性たちが作って売っている。色鮮やかで美しい。6時半頃夕食をとるので夜が長い。サビンダさんに先生になってもらいネパール語のレッスンを受けるがちっとも頭にはいらない。ところで2泊して気がついたのだが、前に旅した時は山ではほとんどお金がかからなかったのに、すべての物価が値上りしていたのだ。普通に食べたり飲んだりしていると、ルピーに換えてきた所持金がたちまち底をついてしまう。それからが一杯30Rs.のミルクティを20Rs.のブラックティで我慢するという貧乏旅行の始まりだった。
 シャブルを経つ朝も晴天。真っ青な空に白くそびえたガネッシュヒマールを背景にシャブルの村が城壁のように立ち並んで私達を見下ろしている。ラリグラスの真紅が映える。今日は谷底まで下ってから登りだ。ランタン・コーラは急峻な谷を駆け下っているのでどこも滝のようにゴーゴーと流れ落ちている。急登,急降も多い。途中休憩した川のわきには露天風呂があって、現地の人が入浴していたが囲いもなく入りたくても入れなかった。夕方、ラマ・ホテル(2390m)着。ここは昔ラマ・ホテルというロッジ1軒だけだったので、それが地名になった様子。今でも元祖ラマ・ホテルがある。一部屋(二ベッド)30Rs.安くてほっとする。ダイニングにストーブがあるのもうれしい。大きな目があいらしい赤ちゃんをあやしていた諭子、ひざにオシッコされる。ランタン・コーラのゴーゴー流れる音を聞きながら眠る。                         
 六時起床、七時朝食の健康的な毎日。お金もなし、食欲もなしで、飽きもせずヌードルスープ(インスタントラーメン)を食べて出発。苔むした巨木の樹林帯が続き、木々の間に初めてランタン・リルンが見える。急登をすぎると、足元を流れるランタン・コーラも広くゆるやかになった。三千メートルを越えているのと疲れで足が重くなった頃、タルチョーはためくランタン村(3307m)に着く。ガンチェンポ(6387m)がゆったり翼を広げている。新しいロッジが目立つ。ランタンも、十一年前に母と弟が歩いた時とはずいぶん変わったことだろう。夜はフランス人ロロにトランプでネパールのゲームを教えてもらった。ロロはネパール人ガイドを相手に毎晩二時間もカードの特訓をしているので強い。サビンダさんはたびたび寒くは無いですか?良く眠れますか?と気をつかってくれる。ペンマくんは日本語も英語も出来ないので、なかなか会話に加われずそっぽを向いているが、呼びかけるとこぼれるようににこっと笑う。朝、目を覚ますとうっすら雪が積もっていた。この日はそれ程きつくなく、昼頃にはキャンジン・ゴンパ(3840m)に着く。ランタン・リルン(7225m)が間近に大きく見え、ガンチェンポが優美な姿で見下ろしている。早速、古いゴンパを訪ねたが中には入れなかった。キャンジンには石積の、これまた古いチーズ工場があって、太鼓のようなチーズが埃をかぶって積まれていた。財布をにらみ、ほんのひとかけ買う。翌朝はどこもかしこも白く凍り付いていた。まぶしくて目が開けられない。キャンジンから先はロッジもバッティもないので、この日は水と携帯食を持って日帰りでランシサ・カルカ(4125m)をめざす。たっぷり五時間歩き続け、モレーンのような小山を回りこんでようやく到着。ランシサ・リ、ペンタン・カルポ・リ等連なる山々が一望できる。けれどランシサ・カルカは強風で、寒くて長くはいられない。簡単な昼食をとって、そうそうに下りにはいる。その帰り道のまた長いこと。結局九時間あまりの行程で一番ハードな一日となった。翌日、登りたかったヤラ・ピークは雪が凍り付いていて危険ということで小さなピーク、キャンジン・リ(4500m)に登る。一時間半の急登で頂上着。見事に三百六十度の展望。氷河を抱いたランタン・リルン、ヤラ・ピーク、ドルジェ・ラクパ、ランタン・ヒマール、、、ぐるっと連なっている。写真に撮ったら十三枚の連続写真になった。三泊したキャンジンではロッジで一緒になった、いろいろな国の人々に写真集をゆっくり見てもらうことができた。この写真集は日本でしか買えないのですか?と聞かれた時はうれしかった。
 帰路はラマ・ホテルまでいっきに下り、翌日は往路と違うコースをとって、のんびり花や鳥を楽しみながらシャブル・ベンシへ下る。山桜やすみれが咲いて日本の早春のような風景が続く。シャブル・ベンシには温泉があって硫黄の匂いがただよってくる。なんとか帰りのバス代を残すことができた。明日はカトマンドゥのホテルでお風呂に入れるぞ!
 六時四十分、ローカルバスは五分遅れで出発した。ふたたびもうもうの土ぼこりをたて絶壁のデコボコみちを下って行く。ザックに帽子にほこりは降り積もり、黒のズボンはたちまち白くなっていく。犬が乗ってくる。やぎが乗ってくる。お年寄り、夫婦、赤ちゃんを抱いたお母さん、鶏を抱いたおじいさん、いろんな人が乗ったり降りたり、人生がギュウ詰になっている。上下、左右にボコンボコンと体をはずませているうちにタイヤがパンク。大きなタイヤをやっと取り外し、中からチュウブを引っぱり出して水につけ穴をさがす。まるで自転車の修理と同じだ。その間炎天下で待たされること一時間半。そんなパンクが二回もあり、十時間かかってカトマンドゥにやっと到着し、長?い旅は終わった。ネパールで流れる時間て何てビスターリなのだろう。3週間が三ヶ月にも思える。そしてトレッキングの魅力は輝く白い山々はもちろんだが、いろいろな人々とのゆったりしたふれあいにあるとつくづく思う。それでは、ペリ・ベトゥンラ(又お会いしましょう)。
この写真は和田さんの弟さん大石一馬氏(故人)の写真集よりご好意で了解を得ています。
「ヒマラヤ大石一馬遺作写真集」山と渓谷社。
この写真集の収益はネパールの子供達の奨学金として使用されます。
問い合わせは和田泰子まで
042-791-0148.
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帰国後の不思議な感覚
江波戸 玲子
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私は海外旅行が好きである。私を含めて、ネパールへ行こうだなんて思う人は多かれ少なかれ、放浪癖がある人に違いない。海外旅行の楽しみと言えば、勿論その国の文化や歴史その他、そこに暮らしている人々の暮らしに振れる事だけれども、私にはもう一つ密かな楽しみがある。それは帰国後の午睡時にみる夢と目覚めの瞬間のほんの一瞬の記憶喪失ともいうべき不思議な感覚である。他人はその様な感覚はないのだろうか。というより、むしろ翌日に午睡などする余裕はないのかもしれない。
 私は旅行期日を短縮してでもこの一瞬を確保することにしている。何故ならこの一瞬に自分の深層心理ともいえる隠された本性を見る事ができるからである。
 今回のネパール旅行後のこの夢は実に不思議な物だった。完全に自分が誰なのか忘れたのみならず、いったい今がいつの時代なのか知覚する事すら出来なかったのである。なんと素晴らしいことなのであろうか。まるで、タイムトリップをした様な感覚であった。
 時差の大きい国からの帰国後には何度かこの感覚を味わうことができるが、如何せん、ネパールとの時差はたったの3時間余り、唯一度きりの体験であったけれども、深い深い心の底を覗いてしまった気がする。
 人間の記憶や経験とは何と曖昧なものなのか。どんな事があっても忘れない事と普段はとても大切にしていると思っているのに、なかなかそれが思い出せない事と、そんな自分の中での優先順位はどのような仕組みで出来あがっているのだろうか。
 放浪癖のある人というのは、結局自分が何物なのかという事を強烈に知りたがっている人なのだと思う。私の放浪欲求は今回の旅によって、更に掻き立てられてしまったみたいだ。
こうして、私もミカの会の他のメンバー同様、ネパールへ通う事になるのだろうか。
ネパール行きの回数券、何処かで売っていませんか?
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カトマンドゥ そして再びカトマンドゥ
松浦 陽子
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三月六日、早朝のスワヤンプナート(通称目玉寺)は、まだお参りの人もまばらで、すぐ脇をすり抜けて行く猿達も意外に大人しい。木の上にいる彼らの仲間達が時折、甲高い鳴き声を上げている程度だ。去年ここを訪れた時は昼間の賑わいの最中で、こんなに沢山の猿がいることに気づかなかった。会長さんに促され、急ぎ日の出が見られる場所へ行き、今まさに昇って来る荘厳な朝陽に向かって思わず手を合わせ、これから先の旅に無事を祈りつつ、シャッターを切った。同行の青沼さん、雅子さん達と四人で目玉寺の中に入り、会長さんに倣って仏様にお参りし、色んな神仏を会長さんに説明してもらい乍ら中を一巡して、最期の部屋に来た時、ネパール特有の丸い大きなローソクが部屋一面に灯されている光景は、まさに異文化そのもので、不思議な感動を覚えた。外に出てくると広場で儀式の様な事をやっているので覗いて、雅子さんと一緒に十Rs程払って儀式に参加させてもらった。
土産物の店も一・二軒開いてきたので、四人で入って、私達女性陣は会長さんに値切るのを手伝ってもらって、可愛いい小物入れを数個買った。帰りは素晴らしい。絵になりそうな正面の急階段を降りて来たが、日の出からもう小一時間も経っているので、参詣の人々も増え「ナマステェ」と登って来る人々と挨拶を交わし乍ら、待っていたタクシーでホテルに戻った。朝食を済ませたら、最初の目的地ポカラに向かって出発だ。
三月十日、五日間のびっしり詰まったスケジュールを無事に終え、再びカトマンドゥへ戻って来た。タンセンでのハードな学校訪問しかしどこへ行っても暖かい歓迎を受け、又セン小学校での楽しい交流の場面が疲れを癒してくれた事、そしてルンビニでの三小学校の落成式典ラッシュ。子ども達のはにかんだ笑顔、可愛い瞳、握手をしていて気になった暖かい手の子と冷たい手の子がいる事実に心が傷んだ事、又ダンプスでは、去年と違った角度から眺めたアンナプルナ山群の大パノラマの感動、サウスの後方にちょっとだけ見えたダウラギリに歓声を上げた事など、いろいろな事が走馬灯のように頭をよぎる。五日振りのカトマンドゥでの夕食は、チベットレストラン。大方のスケジュールを無事にこなして来た安堵感と多少の疲れも手伝ってか、お鍋料理にはあまり食が進まなかった。ホテルへ帰る途中、会や自分の土産物などを探し、あっちの店、こっちの店と忙しく物色して廻った。三月十一日。ネパールでの最後の訪問校パドゥマ・カニヤ・ビディヤシマ女子校を訪れ る。土曜日なので学校は休みだが、校長先生や女性教師の皆さんが出迎えてくれた。始めに図書室に通され、ミカの会で寄贈した図書の贈呈式を行い、会員が順番にスチール棚に図書を入れていった。 それぞれの棚にはしっかりと鍵を掛けるらしい。その後、広間に移り、会長をはじめ役員は雛壇にあげられて歓迎式典が執り行われた。この式典には制服を着た二人の生徒代表も出席していた。ネパール大使館を通じて紹介された女子校で、伝統のある学校である様だが、設備などはやはり不十分であり、援助の必要性を訴えているようだった。都市であるカトマンドゥの学校とルンビニなどは比較にはならないが、今後、会としてどのような援助をしていくべきか、どこに重点を置くべきなのか、又どこか一つの地域に絞り、そこへ重点的に援助をしていくのがよいのかなど、大分固くなった頭で様々なことを考えさせられた旅であった。旅の終わりに、観光地バクタプールにも行き、古い都のメインテンプルや焼き物などを見て、お土産を買い求めた。夜はしなやかで妖艶なネパールダンスとネパール料理を 堪能し、ロキシーで祝杯をあげた。それにつけてもロキシーの味は格別であった。
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